小児性愛者向けラブドールの倫理的問題について
2018/11/07

イギリスのテレビ番組を受けて
イギリスのBBCによる、セックスロボット技術について特集した番組での、日本企業を取材した場面がSNSを中心に話題になっていました。
詳細についてはこの方のブログに分かりやすくまとめられています。
倫理学的にとても興味深く重要な議題なのではないかと、個人的に思いました。
なので今回は、僕の力の及ぶ限りにおいて、様々な着眼点で、セックスロボットという技術が帯びる倫理的な問題点を分析していきたいと思います。
(全然関係ないですが、人形とかAIの哲学的な話題で、僕はギリシア神話のピグマリオンのエピソードが割と好きで、よく連想します。絵でも結構描かれていますがジャン=レオン・ジェロームの『ピグマリオンとガラテア』が一番ドラマチックで好きです。)
どのように考えていくべき問題なのか?
引用させて頂いたBLOG記事には、倫理的に深刻な問題があるので許容されるべきではない、という主張が繰り広げられています。
最も基礎的な論点は、
明らかに子どもの形をしたラブドールを製造したり、所有、並びに性的な目的で使用すること
の倫理的な問題についてです。
倫理的な事柄に根拠づけや理論化を行う倫理学においての中心的な議論は、もちろんヒトがヒトに対して取るべき行動についてなのですが、ラブドールはヒトではなく、シリコンなりで出来たモノです。
この話題で論じられるべきは、小児性愛者による性犯罪は許容されるべきか(そんなものは細かく論じるまでもなく少年少女の人権を蹂躙しているので不可でしょう)ではなく、そういうモノの製造・所持・使用を取り締まるべきか否かなので、つまりヒト以外の存在に対してヒトが取るべき倫理的態度についての分析を行う必要性が出てきそうです。
利用できそうな先行研究
ヒト以外の存在に対してのヒトが取るべき倫理的態度に関しては、動物倫理学の議論が先行研究として役に立つのではないかと考えました。
例えば、動物を虐待してはいけないのはなぜかという問いです。
この問いには、ひとまず現代の主要な倫理学説である義務論(カントの倫理学)と功利主義という2つの立場から、それぞれ回答が得られます。簡単に見ていきましょう。
義務論(カントの倫理学)の場合
義務論者なら、この問について
なぜなら虐待を重ねるにつれて残酷な性格が形成されて、いずれは人間にも危害を加えるようになるから1
と答えるでしょう。
とても大雑把に言うと、義務論では、ヒトと、ヒトではないモノを明確に区別します。
ヒトはモノを所有し、所有物は使っても焼いても壊しても自由に扱っても良い(すなわち所有権)わけですが、ヒトに対しては、倫理的な義務(~してはいけない)というものが発生します。
そして義務論において、動物はモノとして考えられます。
少し違和感を持つ方がおられるかもしれませんが、動物を飼うことはモノを所有することと違いがありません。すなわち動物虐待と器物破損に区別を導入しません。
つまり、義務論では、動物虐待そのものの否定というよりも、その虐待を通した性格の形成が他のヒトに対する振舞いを危険なものにしてしまう可能性によって、動物虐待を禁止します。
このような説明から分かるように、義務論では、動物虐待に反対する理由が間接的で回りくどくなってしまいます。
そもそもカントの生きた時代において、いかなるヒトも家畜やモノのように奴隷的に扱われてはいけない(ヒトと動物は違う)理由を示すことが喫緊の倫理的課題であって、動物に対しての倫理的態度を組み込んでいく前提で、カントの理論は構築されていなかった、という方が適切かもしれません。
動物倫理学を何とか義務論で
動物倫理学の歴史上は、なんとかカントの理論を援用しようとする人も居て(例えばレーガンという倫理学者が居ます)簡単に言えば、ヒト以外にも高度な知能を持つ動物には、その知能相当に、ヒトが持つ権利の一部を与えても良いのではないかというアイデアを読んだことがあります。
要するに、ヒトの仲間枠を作るという発想です。
しかしその基準が、「少なくとも一歳以上の哺乳類」などというように、恣意性が拭い切れない線引き(なぜ鳥類や爬虫類は含まれないのか、など疑問は絶えません)になり、あまり明晰な議論には発展しませんでした。
そもそも権利という概念を理解することが出来ない動物が、権利を行使する主体になることはできないという根本的な問題があります。
実際のところも、カントの倫理学的な着想は動物倫理学では主流とは言い難いと思います。
功利主義の場合
一方で、功利主義の場合はとても分かりやすい。
なぜなら、動物にたいする虐待行為が間接的に人間におよぼす影響とは関わりなく、苦痛を感じる動物を苦しめることがすでに悪だから2
理屈で考えなくても共感を得られやすそうな理由です。
苦痛の感情や痛覚の有無は生物学的な研究によって客観的に線引きが出来ます。
考えられる動物の範囲もとても広いです。
そして何より、ヒトに与える影響に関係なく動物虐待に対して直接的に禁止を根拠づけられる点が強い。
このことから、動物倫理学において強靭な理論というのは、功利主義をベースにしたものが主流になっています。
小児性愛者向けラブドールの倫理的問題について
以上の先行研究を踏まえたうえで、明らかに子どもの形をしたラブドールを製造したり、所有、並びに性的な目的で使用することの倫理的な問題について考えてみましょう。
AI技術の発展による将来的な可能性は横に置いておくとして、現状のラブドールには痛覚や感情がないため、動物倫理学においては効果的だった功利主義的なアプローチは一切使えなさそうです。
したがって恐らくは義務論ベースで考えていく必要があります。
ラブドールはどうあがいてもモノなので、実はラブドール自身に望まない相手とセックスしない権利があるという話が認められるのは、動物以上に難しいと思います。
つまり、「明らかに子どもの形をしたラブドールを製造したり、所有、並びに性的な目的で使用すること」そのものを禁じるような説得力のある倫理学的な見地を築くことは恐らく不可能です。
なので義務論的着想の最も原理的な視点に立ち戻り
「そんなラブドールを許容していたら、いつか実際の子供への性犯罪に発展するのだから、そういうラブドールは禁止すべき」
という論点のみで考えていくしかないと思いますし、現に引用元の方がそういう論調で頑張っているわけですね。そして、この論調は、動物倫理学の場合そうだったように、やはりラブドールの是非を論じるうえでも極めて使いづらいものだと思います。
規制派の倫理的な問題点
パッと思いつくだけで、規制派が回答すべき困難な問いが3つあります。
①心理学的、あるいは統計的な知見が示される必要性
ラブドールの使用することで、実際の子供を狙った性犯罪が増加、凶悪化する可能性を示す知見が、心理学的な研究や統計的な分析によって客観的に示されなければ、そもそも指摘は妄言であってお話になりません。
したがって規制すべきだと論じるのならば、少なくともこの点だけは、「そんなことを疑問に思うなんて人間として間違ってる!」と言わずに真摯に明確に提示すべき資料です。
②法哲学的な問題点
たとえ、心理学的な研究によって性犯罪を助長する傾向性が示されたり、統計的にラブドールの流布と性犯罪の増加に関連性が見られたとしても問題が残ります。
そうした知見は傾向性を示す数値でしかないので、この人は犯罪を起こす確率が高いということが出来ても、実際に犯罪を起こすかどうかは分かりません。
また、ラブドールの製造・所有・使用そのものを直接禁じるような倫理学的な理由付けは不可能なことは先に言ったとおりです。
このことから次の論点が組みあがります。
ある人が未来に重大な犯罪を起こす可能性を有していることによって、その人を、犯罪を犯していない現在において罰することは正当化されるべきか
スティーブン・スピルバーグ監督の『マイノリティ・リポート』に通じるような論点ですね。
この問いも、「正当化される」と答えた方がクリアですが……
ジェンガでいうところの、負荷が集中したブロックを引き抜くような話なので、これを正当化することは、非常に多くの視点との論理的整合性が求められます。
恐らくは、かなり高度な社会構想を基礎から練り上げるような壮大な議論が必要で、単に小児性愛者の性犯罪のみに適用されるような小回りの利く主張に留められません。
③技術哲学的な問題点
最後にラブドールというテクノロジーに対しての評価方法についての批判です。
あるテクノロジーが有益か否かについての判断は、そのテクノロジーを使うことによるメリットとデメリットの比較によって初めて可能になります。
ラブドールに関しては、記事の論調のように性犯罪を助長するというデメリット部分が指摘されるのと同時に、性犯罪の発生を抑制するのではないかというメリット部分の着眼点も紹介されています。
デメリットに関しては、(その数値の拾い方が正しいかは別にして)未成年を狙った性犯罪者が小児性愛者向けラブドールを所有していた割合を算出するという出しやすい数値で、その危険性を訴える論調が中心になると思います。
しかし、メリットに関しては、本来性犯罪しかねない人間がラブドールによって思いとどまった割合を要求されてしまいます。
これは、デメリットの論調を支える数値よりもはるかに算出困難なもののはずです。
この非対称性を無視して、デメリットのみを並べるのでは、テクノロジーへの評価としては不当だと言えると思います。
ひとまずの結論
小児性愛者向けラブドールを規制すべきだ、という主張は、①②③の論点が全てクリアされて、初めて説得的な倫理規範としての骨格が見えてくるのではないかなと思います。
そうでなければ、その主張は理性的な思索によって導き出されたものというよりも、流布している常識や世間体を焼き増ししているだけの素朴な保守主義に過ぎないと思います。
素朴な保守主義を簡単に否定はしませんが、常識や世間体自体が仮に不正なものであった場合に、その主義主張は浄化作用を持ちません。
そして、回答すべき問いが提出されているにも関わらず、居直った素朴な保守主義は非常に危険な倫理的問題を帯びることは間違いありません。
これらが全てクリアされた主張が成立する可能性は否定しませんが、率直に言ってかなり厳しい線で論理展開していくことになると思います。
その他の倫理学説ならばどうか
あるいは古代ギリシア哲学から生じる現代的な徳倫理的なアプローチで、小児性愛者向けラブドールの倫理的問題の是非を論じれないでしょうか。
倫理違反を証明しうる可能性があるが、その立証が極めて困難な義務論
倫理違反はない、とするであろう功利主義
そして、徳倫理ならばむしろその製造・使用を積極的に推奨するのではないか、と個人的には思います。
先の二つの学説と同様に、マーサ・ヌスバウムという哲学者の動物倫理学の先行研究(『正義のフロンティア』という著作を読んだ記憶に基づいて今回は書いていて大枠は間違った理解ではないと思いますが、現在手元にない本なのであしからず……)を応用して考えます。
ヌスバウムという現代徳倫理学を代表する哲学者
ヌスバウムはアリストテレス研究からキャリアをスタートさせた哲学者で、彼女の動物倫理学における着想も、アリストテレスの生物学的な研究から影響を受けたユニークなものです。
アリストテレス博物学的な着想
彼女が援用するアリストテレス的なエッセンスは簡潔に言うと次のような視点です。
例えば、ムカデや毒蛇のような、人間に不快感や恐怖を与え害すら与える生物であっても、具に観察し分析していくと、その生物に特有の優れた点(徳)を見つけ出すことができる。
要するに、どれほど危険で悪にすら思われる存在であっても、存在するものは全て博物学的な素晴らしい感動を与えうるという視点です。
この視点を基礎として彼女は、生物多様性の維持を志向する倫理学的見地を築いています。
痛覚を持つ生物までしか直接扱えない功利主義ベースの動物倫理学に比較して、この理論の射程は限りなく広く、もちろん単細胞生物や植物の多様性を守る倫理的重要性にも直接言及することが出来ます。
もう一つの前提
彼女の動物倫理学の構築にはもう一つ、「自然」の迷信性についての重要な前提要素があります。
自然環境とは、(人間が介入しないという意味で)自然に任せた状態であり、一時的に環境が崩れても、まさしく自然治癒力によって適正な状態に戻るから人間は関与すべきでないというような、一般に流布する「自然」観を彼女は単なる迷信に過ぎないとして否定し、実際の自然環境は、人間が介入して適正な状態になるように働きかけてきた結果なのだ、とします。
要約するならば、自然にしていてある生物種が絶滅するようなことが予期されるならば、人間はその種が絶滅しないように積極的に自然環境に介入し、環境を管理・調整すべきだという観点と言えるでしょう。
具体的には生態系の適正管理のため、肉食動物の食肉や狩りを楽しむ本能が問題になった場合に、実際の被捕食生物と代替して肉食動物の本能を満たすようなテクノロジーが発展していく必要性を示唆するラディカルな議論になっていくので、動物倫理学の主流になるほど使いやすい理論とまでは言えません。
理論の実践
しかし例えば、動物園の飼育環境については極めて鋭い着眼点になります。
単に生活スペースと餌を与えるだけで倫理的な要請に応えたことになってしまう功利主義的な立場に比較して、
ある動物の習性をしっかりと研究して、その動物らしさが最も発揮できるような飼育環境を種によって作り分けていくべきだというような、近年の動物園設計の基本理念ともなっている行動展示の発想には、おそらくヌスバウム的な倫理的着眼点がとてもフィットするように思われます。
ヌスバウムならどう考えるだろうか
ここまでの先行研究の成果を踏まえて、小児性愛者向けのラブドールの倫理的な扱いについて見ていきましょう。
ヌスバウムの理論から見れば、小児性愛者はムカデや毒蛇と同じような存在とは言えないでしょうか。
「不快感や恐怖を与え害すら与える」と考えられている。
しかし、彼らにもその性癖特有の優れた点(徳)が在り得る、と僕は言えるのではないかと思います。
例えば、
ウラジミール・ナボコフを描いた『ロリータ』の文学的な価値を論じることは不可解なことではないし、
あるいは、バルテュスの絵画について語ってもいい。
性的指向(嗜好)の多様性を守ることと、文化の多様性を守ることは密接に連動しているし、根底では生物多様性とも繋がっている、とも言えるかもしれません。
そして、子供の形をしたラブドールとはまさしく、本能を満たすようなテクノロジーに他なりません。
このような点から、徳倫理、というよりも現代の著名な徳倫理研究者ヌスバウムは、恐らく小児性愛者向けのラブドールの開発・製造・使用を積極的に支持するだろうと思われます。
引用させて頂いたBLOG記事で気になった部分
最後に個人的な感想なのですが、文中の「まともな倫理観のある社会ではそういうものが日常にありふれていることがおかしい」という一文に非常に嫌な引っ掛かりを覚えました。
倫理学的な知見が下地にない人間が語る「まともな倫理観」なる判断はおそらく、医学的根拠のない民間療法に似た危険性があると僕は思います。
なぜなら、そうした規範的な(~すべき、とか、~してはいけないといった推奨性を帯びた)言説を適切に用いるためには、相応の訓練が必要だと思いますし、そうした言説にはそうできない存在を疎外し断罪する効力があり、その運用が根拠なく行われて良いわけがないからです。
確かに小児性愛者が児童に対して、欲望の赴くままに行動した際の悲劇は計り知れません。しかし小児性愛者も理性が備わった人間であり、すなわち行動に移さない限り性犯罪者ではないのです。
正直なところ、まさにその「まともな倫理観」こそが、黒人を、女性を、障碍者を、移民を、同性愛者を、今まで不当に差別し迫害してきたのであって、今その矛先を小児性愛者に向けているだけのようにしか見えません。
引用の1、2については『倫理学の話』品川哲彦(2015)ナカニシヤ出版 6ページより