社会人モラトリアム

      2017/06/11

大学を卒業して就職3年目になりました。

自分は一人前にやっていけるのだろうかという強烈な不安は学生時代には付き物ですが、「社会人」と呼ばれる存在になってからも、ズーンと締め付けるような頭痛として残り続けるものなのだな、と感じています。

気持ちの陰りは、「社会人」という人種に普遍的なものだろうし、平成生まれの世代的なものでもあるでしょうし、かなり限定された気質に根ざした個人的なものでもあります。

そしておそらく、状況そのものよりも出口の見えなさこそが本質的な問題ではないかと思います。

社会構造のどこかに所属することで、おおよそ先の展望が低空飛行で決定している。

仕事は慣れてきたが、このままズルズルといくのか、それでいいのか。

しかも人生、どの社会構造に属そうが、この現代社会に属すことそのものが、もはやそれほど幸福な話にならないのではないかという懸念すら抱いてしまいます。「昔は良かった」という老いた戯言に、「確かにあなた達の時代は僕らより良かったですね」と素直に返してしまう若者の救いのなさ。どう考えても現在が良い時代とも思えん。

閉塞感。

その人生の価値についてどうしても考えてしまうわけですね。

 

価値があるという状態

 

価値があるという言葉はものすごく複雑な概念です。

何かが価値を持つとき、背後に価値体系というものが必ず存在しています。

美学的な視点での美醜の体系
倫理的な視点での善悪の体系
学術的な視点での正誤の体系
政治的な視点での友敵の体系
経済的な視点での損得の体系

懐かしい歌の話をすると

100点なんか取らなくいい 大事なのはおんなのこにモテることだよ

という教育テレビ的な価値体系もあり、他方で

あいつらが簡単に口にする100回の愛してるよりも
大学ノート50ページにわたってあの娘の名前を書いてた方が
僕にとっては価値があるのさ

という、峯田和伸が書いた『十七歳』の歌詞もあり、人類の価値体系は多様です。現実なんて知るもんか。

そしてこれらの価値体系が、同じ事柄に同じ価値を認める必然性は全くないわけなんですよね。

綺麗な洋服を作るためにたくさんの動物を殺す必要があったり、新しい発見の可能性がある研究が儲けに繋がるわけではなかったり、一つの事柄が複数の価値体系で異なる階級に位置することはありふれている。

 

しかし、清く・正しく・美しく。

あらゆる価値体系で高い価値を持ちたい、いやホンモノはあらゆる観点で素晴らしいはずだ、という理想も人間のプリミティブな願望としてあります。

ある価値体系での評価を完全に度外視して行動するというのは、誰にとっても苦痛を伴うか、感覚の麻痺を必要とするものです。

 

価値体系を価値付ける生き様

 

一つの価値体系に属して、判断を下すというのはおおよそ簡単な場合が多いです。

二つの映画を見てどちらが良かったか
支払いを一括にするか分割にするか
飲みの席で職場の先輩たちにどの順序で酌をすべきか

これらは一定の価値体系の基準で測定し、どちらが面白いか、どちらが得か、どちらが角が立たないか、などを比較することで、ベターな解答を得ることができるからです。

加えてこの水準での価値判断には、たいてい同じ価値体系を支持するコミュニティが存在し、ある程度人口に膾炙した定石というものが一通りあり、それに従っていれば一人で火傷する心配も薄い。

 

しかし人間の人生においてシリアスな選択というのはこのような形をとりません。

個人の美意識を貫き通すことと、他者と協調して友人を多く持つのとでは、どちらが幸福か
学術的に明晰で批判的であることと、政治的な忖度を働かせた言動をすることは、どちらが望ましいか
道徳的に善良であることと、経済的に豊かであることは、どちらが価値があるのか

重大な判断ほど、価値体系そのものに価値の序列をつけるものになり、それは非常に困難な問いです。

なぜなら、どの価値体系が最も重要なのかを考えるとき判断を支配するような価値体系というものが存在しないからです。
いかなる価値体系を選択するにしろそれは全くの自由であるがゆえに、価値体系の価値の序列は極めて個人的であらざるをえない判断だからです。

自身がどのような価値体系に従うべきなのか、他者に決定権はなく、その究極的な権威は自身にのみ与えられている。
ただこの権威性というのは、個人的で恣意的なものなので、有り体に言えば思い込みとか躍起とか固執とかと相違ないわけです。
だから価値体系の選択は、この権威性にのみ支えられているので、当然のことながら客観的に説明することが出来ません。

「社会人」になるということは、このことに自覚的になって人生を営んでいくということに他ならないように思います。

いかなる価値体系も選択可能な状況下で、一定の価値体系へと織り込まれていくように人生の可能性を収斂させていく「社会人」という在り方は、まさに生き様の創造なんですよね。

そうしなければいけない必然性は何もないにも関わらず、自分でそう決めたからそうなった。

生き様と言わずして他に言いようがないじゃないですか。

したがって「社会人」の人生の在り様はすべて、あなたが進むと決めた道でしょう、と片付けられるのが社会の常といえます。全ては自己責任になる。

 

 経済的価値体系の圧倒的な優位性

 

しかしですね、重視する価値体系がいかに自由と言ったところで、そういう人生を維持するのにも金が要る。

これめっちゃ大事な視点で、どんな価値体系に属そうが、最終的には経済的価値に結びつけなければ生きていけないと言うクッソおもんないルールが採用されてるのが資本主義社会です。

資本主義社会めっちゃ厳しいです。
どんな技能や知識であろうと、それがどれほど強く早く広く深くあろうとも、経済的価値に繋がっていない限り、生存の役に立たないってヤバくないですか?稼げんことにはどうにもならんわけですよ。

 

ここで本当に意義のある技能や知識なら、自ずと経済的にも評価されるし、儲からないならいかなる視点から見ても価値がないのでは?みたいな耳の痛い声が聞こえます。ヤメロ。

 

でもこの指摘、個人的に首をかしげてしまうんですよね。

「お金よりも大事な価値がある、少しぐらい稼ぎが少なくても好きなことを仕事にして生きていきたい」みたいなありふれた願望があるとして、そこから偉大な生産が生まれるとします。モノづくりの世界とかによくあるメンタリティです。

ただ現代の日本の社会構造って、そこから生まれる利鞘を仲介の人間がしこたまブッコ抜いて、現場には十分に回ってないみたいな話、めちゃくちゃ多いですよね。

テレビ番組で園子温が映画制作の依頼を受けるとき、まずは自身に入るギャラ交渉からという話を見たのを覚えています。作りたいものを作れたらそれで幸せみたいなメンタリティで仕事を請けると、いくらでも足元を見られます。悪い大人がたくさんいるからですね。

これ、全般の技能とマネタイズの能力は全く違う訓練が必要だということを端的に表しているし、マネタイズの能力を磨かなければ安定した生活ができないということを前提にしないと事実認識が歪んでしまうように思います。

日本人、ハートウォーミングとか職人魂とか好きなわりにそれに金は出さん。

 

そもそも、儲ける為の最高の近道はまず金を持ってること、というのは資本主義の基礎的なルールです。裕福な暮らしをするためには職能を磨いて給与を得るより、株なりの投資で資産運用する方が早い。

 

ここからは世代的な話になるかも知れないですけど、モノづくりに携わる人間が寡黙で愚直に腕一本の職人肌で人並みの生活が出来ることなんて、おそらくもうなくなっていて、作る技能だけではなくて売っていく能力、資金をやりくりする才能を磨かなければ生活はキツくなる一方かなぁという気がします。

どれだけ有能であっても商才がない人間は買い叩かれる一方ですし、それを抑止するような規制は緩和するのが正義の世の中ですもんね。構造改革ワッショイワッショイ。

付く職種によって貧富の差は拡大する一方でしょう。

つまりですね「少しくらい稼ぎが少なくても好きなことを仕事にして生きていきたい」みたいな願望はほとんど、おもっくそ少ない稼ぎでしか実現しにくい世の中にどんどんなっていくように思うわけです。儲けに特化しない限り活路なし。
まともな暮らしがしたいなら大企業に勤めるか企業家になりなさい。

 

 

エリートサラリーマンか成功した社長さん以外は人に非ず、という結論が得られます。人でない道を選んだあなた、自己責任ですよ。

仮に自分に子供が出来たとして自分の受けた水準程度の生活と教育を自分の子供に施せる見込みはない、というのは同世代にかなり共通した認識じゃないかなぁと思います。
世知辛いですね。涙出ちゃう。

 

個人的な話

 

僕は現在小さな町工場で働いています。

大学は一流とは口が裂けても言えませんがそれなりのところで、就職活動をがんばればそれなりに安定した会社に入れたかも知れません。

ところが僕は当時、血気盛んな哲学青年かつ自称クリエイターというめんどくさいアイデンティティの持ち主だったので、就活産業の窓口から見る文系の求人が事務系やら営業系ばかりだったことに、かなり絶望感がありました。
どこに行ったらモノを作れんのじゃ、とめちゃくちゃ焦りました。

僕は生き方の主軸として、良いモノをつくったヤツが一番偉いという価値体系を採用しています。

 

たとえば稼ぎのある俺偉い、みたいな自意識があるとします。
でもお金って、結局より良いモノやサービスを消費したい、という欲望で溶かすために必死で稼いでるわけですよね。
紙幣のそれ以外の使い道って「どうだ、明るくなったろう」って言うくらいにしかないと思います。
つまり経済的価値って常に副次的で、人間の生活を豊かにするためにはモノやサービス以外は源泉にならんわけです。
ならそのモノを作ったやつが一番偉くないですか?

 

したがって僕は、良いモノ作った人間は年齢や経歴に問わず一番偉く、皆に最も尊敬されるべきで、恵まれた暮らしを出来る社会であるべきだと考えています。
作ったやつが何も作ってないやつをぶん殴っていい。心地よい世界観じゃないですか。
0から1を作るやつが、1を100にするやつより偉いに決まってる。そう考えています。

それってまさしく職人の世界でして、設計や工学を学んだわけでも美大を出たわけでもない自分を職人として雇ってくれそうな会社で目に留まったのが今の職場だったというわけです。

労働時間的にはクリーンでモノづくりの意欲を満たすという面でも本当に恵まれた環境なので、文句を言うのは罰当たりだと思いますが、しかしこの仕事本当に儲からねぇなぁというのが、働くなかの実感として強く沸いてきています。

確かに大枚叩いて買うジャンルのものではないが、結構良いモノ作ってると思うんやけどなぁ……
やっぱりモノづくりだけではなくマーケティングなりの勉強も必要やなぁ……
日々もどかしい。

 

個人的に悲しいのは、日本の社会は高学歴で優秀な頭脳ほど、金融なり商社なり給料の良い所に集中して、モノやサービスを生み出す現場には流れていかないということです。

もちろん資本主義社会の中において、それが個人に取れる合理的な最適解であるというのは理解できるのですが、頭の良いやつがモノを作ってない、というのはやっぱり寂しい。
そういうのは理系が、という話もあるかと思いますが、文系にしか出来ないモノづくりの着眼点というのも絶対ある感じがするんですよね。

 

まあ、何の説得力も持たない感情論は置いておくとして、少なくとも経済的に恵まれた立場にある人は、プライベートの消費の際には出来る限り、対費用効果とか難しい話を絡めずに衝動的なバカな浪費をたくさんしてほしいですね。
資本主義社会は無駄遣いがなければ繁栄しません。市場は無くても良いモノがほとんどです。消費者が賢くなるほど経済は悪化します。

 

だから僕にもお仕事のおこぼれを……お願いお願い!

 

まとめ

 

全体に暗くもちょっとアツいことを言いましたが、実際の人生は選択を悩んでいる間にタイムリミットが来てどっかにえいっと飛び込むしかなかったり、コレと思った道がそうでもなくて悩んだり、そんなにカッコよく進むわけではないです。

しかし、人生はもう取り返しが付かん。自身の能力を一極に尖らせるために他の可能性をすり減らす摩擦の火花で人生を煌めかせる。血眼の狂気の沙汰を生き様と言わなどうにもならんわアホンダラクソッタレ!!!

でもそういう狂気が胸を張れるような、本当に生き様になるまでしっかり生きてぇなぁという3年目です。

 

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