論理的であること 直感的であること
2017/05/27

学校や職場やSNSで、論理的な思考能力に結びつけて発言の優劣を付けたがる人は居ませんか?
自分の考えに反する相手を、「論理的でない」という一言で切り捨てようとする。ムカつきますよね!
……それは単に性格が悪い人で、論理とか関係ないです。
まあでも確かに、論理的に考えられることは有益な能力ではあります。
ただ、世間一般に論理的思考能力が過大評価されている風潮も感じます。
実はそれほど大した能力ではないかも知れません。
論理的思考とは?
論理的思考というのは、任意の前提から必然的に導き出される結論を得る能力のことを指します。
喩えるなら、建築物の構造設計のようなものかも知れません。
「建設的な考え方」とかよく言いますもんね。
必要な箇所に、必要な材質の建材を、必要な分量で使う。
訓練によって高めることができ、思考を順序立て、誰から見ても分かりやすいものにする能力です。
つまり、考えを過不足なく人に伝える為に不可欠な能力です。
これを身に着けずに相手と議論することは無責任とも思えるほどです。
資格を持たずに家を建てるのと同じように。
しかし、その能力はあくまで任意の前提から思考を構築する能力であって、何が前提として選べれるべきなのかを考える能力ではありません。
論理的思考が補強するもの
論理的思考というのは、世界を語る為のツールであって、世界を見る為のツールではない。
これは本当に知られるべきことだと思います。
論理的思考は、世界の見方に立脚して作動しますが、世界の見方自体は、論理的思考に依存するものではありません。
つまり、どれほど論理的に思考する能力を鍛えたところで語り方がまともになるだけで、もともと世界の見方が周りからズレている人は、分かりやすくおかしなことを語るようにしかなりません。
かつ、論理的思考の訓練は、世界の見方を矯正するわけでもありません。
したがって、言っている内容はクリアだけれど、なぜその内容を語る必要があるのかが理解不能、というような言説というのはあり得ます。論理的かつバカらしい言説というのは当然存在しますし、むしろそのような言説の方が多いのが常です。
意外なことに、これは発言者の学歴や知能指数に関係なく、バカな人はずっとバカです。
先ほどの喩えを使うとですね……
近くに強固な地盤がない。
頑丈な柱になる木が入手できない。
質のいい道具が揃わない。
十分な資金がない。
いくら建て方を熟知していたとしても、まともな建造物ができない状況というのは考えられるわけです。
こういう状況は建築学の鍛錬によって改善するわけでもない。
いくら理に適ったやりくりをしたところで、出来上がりはトンデモになっているなんてことはありうるわけですね。
要約すると、論理的であることは言説のわかりやすさには関係がありますが、言説が適切なものになるかどうかには関係がありません。
この点が非常に見過ごされやすいように感じます。
論理的思考を超えた【事実】という聖域
世界の見方。
世界は自分の見えるようにしか見えないし、それに基づいて考えるしかありません。
揃ったもので設計して建てていく以外に方法がないわけです。
ちなみに世界の見方は事実認識とも換言できます。
しかし、【事実】というのは思考の根拠であって、思考によって発見されるものではないです。
つまり、事実認識は非論理的な方法でのみ得ることができるものです。
ゆえに、【事実】とは無根拠に正しいと感じるものであらざるを得ません。
というよりも、正しい、と無根拠に感じられるものを我々は【事実】と信じているのです。
事実が事実として思われることに思考が入り込む余地はありません。
【事実】を捉えるもの
根拠がないのですから、何を【事実】として捉えるかは、直感のバイアスを受けています。
事実認識には性差、年齢差、環境差、個人差が現れます。
そして、他者がどういう【事実】を基に考えているのかって、ほとんど可視化されていないので自分の事実認識のズレというのは、なかなか気付けないんですよね。
ウドの大木しか生えない土地の住人は、ヒノキの有益さを知る由もない。
まあ、井の中の蛙という話です。
それが論理的であったにせよ、我々は直感が指し示した【事実】によってしか言説を構築できません。
直感に基づく以上、【事実】が全ての人において一致する必然性は一切ありません。
ゆえに客観的な事実というものは存在しません。
この世で【事実】とされているものは、実は個人的な思い込みか、多く聞こえてくる伝聞でしかないのです。
この点から言えば、「論理的かつ客観的な思考」というのは、誰しもが思いつくような話題について、という意味で、大衆受けする凡庸さとも言えるかもしれません。