リベラル(派)に関しての批判的分析
2017/05/27

二つの倫理的な立場
僕の知る限りでは、倫理的な言及には……
①個人の志向や意図に寄らず普遍的に目指されるべき【善・悪】【正・誤】というものが存在する、という前提で語られる倫理
②何が「善・悪」「正・誤」なのかは、個人の志向や意図のみが理解し決定しうるという前提で語られる倫理
という二つの立場があるように思えます。
①の倫理観の性格
この倫理観は、何が【善・悪】【正・誤】なのかの判断に
【既知の者・無知な者】の明確な立場の差を作ります。
【親・子】【教師・生徒】と言った関係性が、まさにこのイメージに当てはまります。
既知の者が教えるー無知の者が学ぶ
教育的、啓蒙的態度と言うのは、前者のような倫理観によって積極的に認められます。
人間的な良心を身に着けるために有効な倫理観と言えます。
また、目指される価値は普遍的なので、価値観の相違による対立は本質的に生じ得ません。
倫理的な判断は、万人において正しい選択が存在するというのが前提だからです。
仮に対立したような状況が発生しているとしても、それはいずれかが誤っているか、あるいは、互いに譲歩と同化を重ねて一つの価値観に収束していく、と言うのが原理的な性格です。
②の倫理観の性格
全ての人が当人においての【善・悪】【正・誤】を適切に判断する能力を持った対等な存在者として考えます。
かつ各人の価値観自体に対する序列も存在せず、常に相対的だという立場で語られます。
つまり、価値観の相違によって人々が対立するのは当然であるという前提で、かつその対立を適切に批判し、判決を下すことが出来るような高次の審判者もあり得ないという立場です。
このような倫理観は、最終的に対話と多数決を基調とする民主的制度を導きだします。
各人の信念は全て対等に価値があるのだから、どのような意見が在り得るのかを対話によって探り出し、最もニーズの集まる選択をする以外に、判断の正しさは存在し得ないと考えるからです。
真っ向から衝突する倫理観
どちらも社会の存続に不可欠な倫理観です。
しかし見ての通り、①の倫理観は、②の倫理観を根本的に否定するような前提によって成り立ちます。
逆も同様の性格を持つので、原理的には相容れないものです。
その場の実益のみを重んじるのであれば、明らかに矛盾する倫理観を日和見主義的に使い分けることも悪いことではないかもしれません。
しかしその整合性のなさには、判断によって生じる結果の再現性、建設的な議論に繋がるような説得力、ともに欠落してしまう危険性があると思われます。
倫理観に沿って政治を運営するということ
政治について考えた場合に、①の倫理観は君主と臣民という形態に類似する構造を作ります。
こう言った国家の構造は大雑把に言って、歴史に非常に暗い影を落としてきたと言えるでしょう。
①の倫理観に基づいた政治は、平たく言えば凡そ失敗することを、我々は経験的に学んでいます。
②の倫理観は原理的に、それが導き出す民主的な多数決で決定された判断の適切性を問うことができません。
なぜなら、各人の判断能力は対等である前提において、多数決で決定された判断の適切性を問うことは、各人の判断能力より高次の判断能力を想定しているため、端的に原理に反するからです。
しかし、突き返したくなる多数決の結果に「否…」という直感は、やはり誰しも持つものです。
リベラルの本質
そこで、互いに葛藤を抱えた二つの倫理観のハイブリットとして誕生するのがリベラルという政治思想です。
リベラルは簡単に言うと、普遍的な正義と公正に適った社会保障や福祉国家を、民主的に実現していくことを理念としたイデオロギーです。
民主的な多数決による政治的判断を客観的に批評する視点自体を、民主的な多数決から生み出すことを目指しています。
言い換えると、①の倫理観が持つ普遍性を、②の倫理観が持つ民主的な方法論によって、多様性と合意を得る形での実現を志向するイデオロギーです。
リベラルという方法
ではリベラルはいかにして可能か。
あるいはどのような状態がリベラルであるか。
不可欠とされるのは無知のベールという概念です。
無知のベールとは、性別や年齢など自己に関するあらゆる情報を自身が知らない、という状態のことを指します。
そしてリベラルとは、自己文脈に関して無知な状態を前提とした投票への態度のことを指します。
自己情報の一切の欠如を前提とすると、どのような政治的判断が自身の利益になるのかを認識することができません
したがって自身が、その共同体の成員の何者であっても不利益を被ることがないか、少なくとも最小限にすべく、正義と公正に適った福祉国家の実現を、利己性に根ざした戦略における最適解として、多数決によって選ばれるはずである、というのがリベラルの骨組みとなります。
リベラルについての批判
リベラルについて、最も攻撃的な批判は無知のベールは実質的に可能か、に尽きます。
「不可能である」というのが僕の回答です。
正確に言えば、無知のベールという概念自体は有益かつ有効足りえ、よってリベラルにも存在する意義は在り得るが、それを適切に運用できているというようなリベラル支持者をまず見たことが無い、という経験則によります。
要するにリベラル支持者は、単にリベラル派に過ぎない、ということです。
リベラル派について批判
リベラル派の最悪な点は、リベラルを、インテリとしての良心の文脈で解しているところです。
リベラルが実益的にも論理的にも存在する意義が成り立ち得るとするならば、それが無知のベールという特殊な状況下での利己性に根ざした戦略における最適解だからであって、それが良心や道徳に適っているからではありません。
「人道的な観点からリベラルを支持すべきだ」というリベラル派は体感的に非常に多いですが、リベラルの本質を掴み損なった教条主義以外の何者でもないように思えます。
また無知のベールという概念や、リベラルの理念を、正確に理解し共感し実行できる人間は、明らかインテリといって御幣はないように思いますが、当のインテリはリベラルの原理に従ってリベラルを志向しているというよりも、自覚症状の有無によらず、自身がインテリの価値観や視野で育ったことに対する素朴な肯定感によって保守的にリベラルを志向している嫌いがあります。
つまり、インテリという自己文脈やアイデンティティの一部としてリベラルを解しているので、無知のベールを運用できているとはとても言えず、従ってリベラル足りえません。
リベラル派の本質
ここから得られる結論。
リベラル派はリベラル主義者ではなく、①の倫理観のような普遍性と自身の信条を同一化させて、それに反する政治的判断を持つ人間を、そっくり①の倫理観に沿って「野蛮」「反知性」「非人道」と罵倒しておきながら、自身が特権意識に凝り固まったゴリゴリの啓蒙主義者であることに無自覚な層と言えます。
要するにリベラル派と①の倫理観には差異がありません。
したがってリベラル派が政治的な実権を握ることの危険には、歴史的に見て強い蓋然性を感じます。
リベラルは確かに、①と②の倫理観の問題点や矛盾を改善するものではあります。
しかし、①の倫理観に支えられるような社会主義国の歴史的世界的な失敗を目の前に、相対的に勢いを増した民主主義に対抗すべく、①の倫理観の支持者が縋り付いた政治観と見るべきでしょう。
現状のリベラル派は、自身が帰依する権威で対立者を断罪することにしか興味がないように見えます。