『観光客の哲学』はタクシーの中で起きる

      2017/07/09

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東浩紀(あずまん、という呼び方の方が風貌に合ってて好きです。)の近年の著作

『弱いつながり 検索ワードを探す旅』

『ゲンロン0 観光客の哲学』

の二冊を連続して読みました。

哲学書でありながら、「実」への目配せをかなり感じられる内容でした。

刺激的、というよりは現代を生きる我々が漠然と感じているモヤモヤとした先の見えなさが、的確に明文化され、分析され、一筋の光がスーっとさしてくるような、穏やかな知的満足感が得られるエッセイと論文だと感じました。

それでいて『弱いつながり』はスラスラと読め、『ゲンロン0』は哲学に触れたことのない読者の上質な入門書にもなり得るほど、丁寧に基本的なことから語っている。

とは言っても、僕はあずまんの熱心な読者というわけでもなく、実際この二冊にしか著作に触れたこともないので、高度な批評を出来るわけではありません。しかし、とても良い本だったので、自分がミーハー的に齧り読んで無責任に考えたことを語って、この本を人に薦めたい……まさに観光客のように。

村人と旅人、そして観光客

 

この二冊に共通するイメージとして、村人・旅人・観光客という三つの概念の枠組みが使われています。したがって、この言葉たちのニュアンスを掴む必要があります。

村人

村人のイメージというのは、ナショナリズム。自分の住む国や地域やグループの考え方に絶対的な価値を置き、その内部での論理や習慣に漬かりきることで、共同体からの恩恵を受け人生の充実を図る生き方です。
『ゲンロン0』の中では、現代におけるこの人生観の大きな潮流として、ドナルド・トランプのアメリカ・ファーストというコピーが勝利したことなどをもって、リアリティのある思想として挙げられています。

もっと卑近な例をとってみれば、マイルドヤンキー的な世界観と考えても良いかも知れません。
違う環境で育った人間の言ってることはわからん。でも地元はサイコー!バカできる仲間サイコー!
ゎたしたちズっ友だょ、オレたちサイキョーよな!!という関係性こそが大事っしょ!?という考え方です。

 

旅人

旅人のイメージは、グローバリズム。特定の所属に縛られず、自身の持つ何らかのスキルを生活の糧としながらあらゆる国を渡り歩くことに、至上の価値を認める生き方です。
『ゲンロン0』では、グーグルなどのグローバル企業がそれにピッタリのイメージとして挙げられます。大切なのは生まれや育ちではなく職能というわけですね。単に旅人というより、ニュアンスとしては旅商人と言ったほうが適切です。
本当に能力のある人は世界中どこに居ようが強いし、そういう人は世界のどこでも活躍の場に出来るべきだという信念です。
もっとアレな喩えをしますと、ナオト・インティライミ的な生き方というのがもっと現実的な選択肢かもしれません。

 

グローバル企業の経営者レベルの能力と成功を手にしたフットワーク軽々人間は圧倒的に少数派だからです。
(ナオト・インティライミ自体はあれだけ世界を歩いてきたと言いながらも、話し方がマイルドヤンキー的な内輪ノリっぽくて微妙な例かも知れませんが、しかし彼ほど「ホームなんてない、世界がホーム!そして音楽が共通の通貨!」みたいなことを言いそうな、旅人的価値観の体現者を他に思いつかない……)
どこからそんな自信が湧いてくるのかは分かりませんが、驚異的なバイタリティで世界を飛び回り、「世界を見て来た」とか「世界は一つの価値で繋がれる」みたいな意識の高い人たちです。

 

村人と旅人は対立的です。
それは、人種差別的なトランプ大統領の政策に、断固移民を社員として受け入れると宣言したグーグルのことを考えるのが、時事的に一番リアリティがあるでしょう。

ここでトランプを悪玉、グーグルを善玉と見るのは浅いと思います。
移民を採用するのは、その人が移民であるからではなく、優秀な人材だからです。トランプの人種差別に対して真正面から道義的に批判を飛ばしているわけではありません。理解があるからではなく、利用価値があるから関わりを維持しようとしているだけです。
裏を返せばグーグル的な世界観では、アメリカ国民であろうが移民であろうが、有能であれば高待遇を与えるし無能であれば慈悲もなく容赦なく切る、というところまでがセットです。
確かに人種や信条で差別はしていないが、貧富の差の是正に関しては何の責任も負わないし、その問題性にも感度を持たないのが旅人の本質的な態度ではないでしょうか。

 

つまりどちらの生き方にも、欠陥というか非常にラジカルで冷酷な一面があるということです。しかし、現状で政治的な実力を持っているのは、この二大勢力に他なりません。そしてどちらかに従わなければ居場所がない。でもどちらかに心酔し切れる人間というのも多くはないのではないでしょうか。

「ニホンは良い国」という声に、なんとなくそうですねと返し、「セカイに目を向けよう」という声に、漠然とそうですねと返す。どちらにも着けずになんとなくモヤモヤしたものが溜まっていく。

 

ちょっと話が抽象的になりましたが、もしマイルドヤンキー的な人生か、ナオト・インティライミ的な人生かしか選べないとしたら。
どっちにも割りと拒絶感がある、というかどっちも自分には務まりそうもないな、たぶんどっちも無理だなと感じる人が結構多いんではないかな、という話ですね。
マイルドヤンキーだと人間関係があまりに濃密で息苦しく、ナオト・インティライミは持続可能なライフプランとは言いがたい。
少なくとも僕にはどちらの適正もないです。

 

そこであずまんが着目したのが観光客というわけですね。村人にもなりきれない、旅人にもなりきれない人でも、観光客にならなれる。普段は村人として生きてはいるが、時々旅人気分になる。どちらでもあるし、どちらでもない。観光客には村人とも旅人とも違う独特のニュアンスがあります。

 

観光客

村人とは、とりあえずは自分のコミュニティとは違う環境に短期間でも足を運ぶ存在という点で違う。
そして旅人とは、旅先で何か実用的な経験や精神を身につけよう、発展させよう、というような生存に切迫したような真剣さがない点で違います。

観光客はなんとなくその場に行き、特に政治的な活動や生産的な働きをするわけでもなく、ただ関心に任せて金を払い、消費する。そういう存在です。

しかし、そういう態度にこそ、人生の転機が、世界情勢の軋轢の調整弁としての機能がありうるのではないか、というのがあずまんの企てです。

村人や旅人というモチーフは詩になります。絵になります。なんとなく深い意味や重要な存在感を持つモチーフです。人類が生み出したあらゆる文化作品にこのモチーフは幾度となく登場してきました。当然そういうイメージに合うような思想というのも生まれます。

しかし観光客はというと、下世話なイメージになります。そこには切実さも必然性もないからです。
位相としては村人と旅人の中間として、かつ全く別のものとして想定可能なのに、歴史上の哲学者には一度も真面目に考えられてこなかった。しかし今その位相にこそ人類の可能性がある、という着想です。

 

『観光客の哲学』としての『ナイト・オン・ザ・プラネット』

 

それでは、観光客的な生き方と言ったときに具体的にはどういうイメージを思い浮かべれば良いのか。

あずまんも『ゲンロン0』で多くの紙幅を使って、さまざまなアプローチからその姿を炙り出そうと健闘していました。

あずまんの「観光客」という概念の描写には、個人的にジム・ジャームッシュ監督の『ナイト・オン・ザ・プラネット』という映画を頻繁に想起しました。

5つの短いストーリーによって構成されるオムニバス形式で、どちらも夜のタクシーで居合わせた個性的なドライバーと乗客のたわいもない会話劇です。

そのどれもが、エキサイティングな展開があるわけでもなく、割とどうでもよく思える、わざわざ映画にするほどでもない話です。しかしなぜか見続けてしまう不思議な魅力のある作品です。

なんか雰囲気いいなぁと思いつつ、それがなぜ良く思えるのかが、ビシッと言葉にしづらい作品なのですが、この良さと『観光客の哲学』は非常に関連性のある話のように思えてくるのです。

 

観光とタクシーは似た特徴があります。タクシーにはドライバーという、ひとまずは車内の環境に責任と権限を持つ村人が居ます。タクシーの中はドライバーの日常空間です。

そこに乗客が入ってくる。しかし乗客は普通、タクシー自体に何か大きな目的や経験を求めて乗るわけではありません。つまり乗客は旅人ではありません。

ドライバーと乗客の繋がりは単に金銭的なやりとりです。 移動サービスの供給と消費。

しかしこの商取引の枠組みが、国籍・信条・社会的地位・性別・年齢の壁を越えて、普段なら出会うはずのない人間同士を、face to faceの距離へと近づけている。文化的価値観の共有による村人的な繋がりでも、経済合理性における実利的な連帯という旅人的な繋がりでもない、繋がる必然性もなく繋がり自体もすぐに忘れてしまうような「弱いつながり」。
タクシーでの出会いは偶然居合わせた以外のなにものでもありません。「誤配」という専門用語をそのまま表すように。まさに観光客と現地人の関係にピッタリと重なるのではないでしょうか。

しかし、ドライバーは金をもらう以上乗客を降ろせないし、乗客は走っている以上降りられない。一緒に居る必要性も必然性もない人間たちが、一緒に居続けなければならない限定的な強制性を持った環境を、タクシーは作り出すわけですね。これは、『ゲンロン0』第2部で論じられた「家族」の概念に近い機能かもしれません。そしてそこに会話が生まれる。

ただ、映画内でのタクシーというガジェットによって生まれる、偶然居合わせただけの人たちの会話からは、「そんな変わり者の人生があったのか」というささやかな驚きと笑みが生まれ、料金を支払い終えた後の彼らの人生の見え方に小さな変化をもたらしたのではないか、という温かな兆しを感じさせます。こういう兆しはタクシーだからこそ生まれていて、その可能性(変化する確率が高いという意味ではなく、展望の視野が広いという意味で)には注目すべきです。

 

キャンピングカー(これは村人的な乗り物の典型ですね)を持つことや、ピースボート(これは旅人的な乗り物の典型)に乗ることは、人生をかけるほどの決断を意味しています。確かにその意義は大きいのかも知れない。

しかし、全ての人がそのどちらかの決断をできるわけではない。あまりにも負荷が大きいからです。

でも、タクシーになら誰でも乗れる。そしてそこにもキャンピングカーやピースボートに匹敵しうるドラマがありうるのかもしれない。その視座の芽生えは、現代人の生において非常に重要な意味があると思います。

『弱いつながり 検索ワードを探す旅』、『ゲンロン0 観光客の哲学』、そして『ナイト・オン・ザ・プラネット』を手にとってみてはいかがでしょうか。

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