差別でないことなどあるのか
2017/05/27

差別について
国籍とか肌の色とか、本人の意思で変更不可能な特徴を理由に扱いを変えることは一般に差別だと言われます。
しかし変更可能な特徴なんて人間にあるのだろうか、とよく思います。
差別と自己責任の境界
実際は他にどうしようもないことしかこの世界では起きていない気がする。
【変更可能/変更不可能】はものすごく恣意的な区別なように思うのです。
とりわけ知的な能力や性格的な特徴というのは自己責任として扱われやすい。
例えば、意思の強さ。
意思が強ければ努力できて高い功績を生み出せるわけです。
授かりものとしての意思
しかし、意思がなぜ生じるのかを考えると、経験的にそれは本人が意思を起こした、というより、本人に意志が起こったという方が適切だと思います。
つまり、行動の原動力になるような意思、それ自体は本人の意思とは無関係に生じている。
努力や鍛錬というのは最も能動的な特徴で、それによって生じる能力の差に対して扱いを変えるというのは、差別であると一切認識されない傾向があります。
しかし実際は、
【努力して能力を発揮していること/努力せず能力も低いこと】
【白人/黒人に生まれたこと】
【男性/女性に生まれたこと】
これらは本質的に違いがないのではないか、と思えてならないわけです。
だから、努力できないことも厳密に考えると、本人の意思ではどうにもならない形で努力する意志が生じないのだから、自己責任とは言い難くなる。
すべてが歯車の一部
その裏返しで、行動が意思に突き動かされて起きるのなら、人間に自由なんてものはないということになります。
機械機構としての世界。
自由など存在せず、全てがシステマティックに強いられる形で起きている。
能動性の全てが受動性に収斂されていく。なるようにしかならないし、そこから逃げることができない。
これは一般に運命とか宿命とか呼ばれるものです。
この世界で起こるすべての出来事はそういうもので、変更可能性の余地なんてものは始めからどこにも存在しないのではないでしょうか。
さて【差別】とは
何が不当な差別で、何を自己責任として片付けるべきか。
その区別は、【可哀想な弱者/不快な愚者】というような
感情的印象の調整弁として恣意性を正当化するためか、
【利益をもたらす弱者/役に立たない愚者】という
算盤上の判断の表れでしかあり得ないのではないでしょうか。
しかし、他人から気にかけて貰え、利益を提供できる人物を指して、「最も恵まれない」ということが果たして可能なのかは、よく分かりません。
どちらにせよ、哲学的な意図を持ってこの区別の境界線を論じることに大きな意義があるとは思えません。
ただ、ある人の困難は被差別として保護され、ある人の苦悩は自己責任で切り捨てられる。
その区別が生まれること、それ自体がこの世界の宿命なのでしょう。